大永初年(1521年)、この辺の一帯を治めていた有馬和泉守忠親が山頂に隠居城を築きました。標高153mの山頂に築かれた城は東西30m、南北330m、堀切を3ヶ所、城廓を十数ヶ所有するこの地方最大規模の山城でした。
本丸(東西約24m、南北約31m)二の丸の石垣などが残る本城跡のほか、松本峠に向かう道には3本の堀切跡も残っています。
鬼ヶ城山頂にある「鬼の見晴台」から見る熊野灘は雄大で、お勧めのフォトスポットの1つでもあります。また、鬼ヶ城には数種類の桜が植えられており、春には山頂から鬼ヶ城センターまでの遊歩道で桜の道を楽しむことができます。
鬼ヶ城センターから山頂まで約20分、山頂から松本峠までは約15分。
有馬氏は上代より熊野大神に奉仕した熊野別当家の出と言われ、有馬町にある産田神社神官の榎本氏が有馬一帯に勢力をはり、産田神社近くの有馬二つ石に築城してから有馬姓を名乗ったと言われています。本姓は榎本。鈴木姓、宇井姓と合わせて熊野から全国に広まった姓で熊野三党と称されています。
鬼ヶ城・城主、有馬和泉守忠親には子がおらず甥の河内守忠吉を継嗣として迎えて跡目を譲り大永初年(1521年) 鬼ヶ城本城に隠居しましたが、その後、忠親の実子である孫三郎が出生しました。忠吉が邪魔になった忠親は、忠吉に罪を着せ自尽させたため、河内守親族の怒りを買いお家騒動に発展します。
多勢の兵に攻め込まれた忠親は鬼ヶ城を攻め落とされ北に逃げ、伊勢路より挽回しようとしましたが、味方であった遊木曽根、 三木氏も降参したため三木城で自刃しました。忠親の没後、嫡男である有馬孫三郎が家督となりましたが25歳で亡くなり、その後は有馬氏の親族である大和守城代が城を守りました。
しかし、この騒動で有馬氏の勢力は大きく傾くことになります。
同じ頃、勢いを増し領地を広げていった紀伊国新宮の堀内安房守氏虎に攻め込まれましたが、有馬家臣の能力が高く何度も防戦したと言われています。堀内氏との戦いののち、有馬の家臣達が協議し両家の和解が成立。永禄元年(1558年)氏虎の次男である8歳の楠若(のちの有馬主膳氏善または堀内氏善。水軍武将・九鬼嘉隆は義父)が有馬の養子に入り堀内氏は労をせずして鬼ヶ城と領地を手に入れることになりました。
その後、天正2年(1574年)堀内安房守氏虎が死去すると、早世した実兄・氏高に変わり氏善が堀内に戻り新宮城主となったため、氏善が両家の主となります。堀内氏は、現在の新宮市を中心に2万7000石(実質5~6万石)を支配した豪族であり、熊野水軍を擁する軍事力と、熊野三山などからくる宗教的な権威と経済力を有していたと言われています。熊野水軍の将であった氏善は織田家、豊臣家に仕え関ヶ原の役までこの地を治めましたが、西軍の敗戦後に領地を奪われ没落し、その後は加藤清正に仕え熊本に移りました。
有馬では、早世した有馬孫三郎の弟、九鬼代目(代官)・有馬中務の娘が氏善の妻となり、たくさんの子に恵まれ、有馬は氏善の五男である氏時が継いだとされています。今も熊野にはその子孫が住んでいると言われています。
※忠親の隠居は1523年頃と言われていますが、大永初年が有力とのこと。(新くまの風土記より)
※九鬼代目(代官)有馬中務の子、有馬権平はのちに九木裏庄屋となり、その代より姓を九鬼と名乗りました。
「平安時代桓武天皇の頃、将軍坂上田村麻呂はこの地に隠れ、海を荒らしまわって鬼と恐れられた海賊・多娥丸の征伐を命じられました。近くの烏帽子山に大馬権現の化身の天女が現れ、鬼の隠れ家(現在の鬼ヶ城)を教えたが岩が厳しくそびえ、磯は波が激しくとても立ち寄れませんでした。
その時、沖の魔見ケ島に童子が現れ、舞い唄い、軍勢も加わって大騒ぎをしました。鬼神が油断をして岩戸を開く一瞬に将軍が神通の矢を放ち、見事一矢でしとめました。童子は光を放って北の峰に飛び去ったので後を追って行くと、紫雲たなびき芳香 に満ちた洞窟(清滝の上流)があり、守仏の千手観音を納め安置しました。」という伝説が残っています。
多娥丸を征伐した坂上田村麻呂の軍は、勝利を称え音楽を奏でながら行進したことから松本峠の下にある橋の名は「笛吹橋」と呼ばれており、討ち取った鬼の首は熊野市井戸町にある大馬神社に埋められたとされています。坂上田村麻呂が建立したとされる大馬神社では毎年1月6日の祭礼の日に一年の平安を祈る「弓引き神事」が行われています。